少し私の生い立ちを話たいと思います。
私の生い立ちから与論という島の真実が少し見えれば幸いです。
- 管理人の生い立ち
- 島の同級生
- 管理人の生い立ちから見る島の側面
幼馴染
少年期の私はまず世界の広さを知らなかった。与論には同じ島内(周囲が24㎞の小さい島)で小学校が3つあるのだが、小学校が違うだけで全く別世界の人間に思えた。
小さな島の同級生なのに仲間意識などもなかったように思います。
わたしは同じ小学校の友達とばっかり遊んでました。当時ネットも普及してなかったので、小さな島の小さなコミュニティそれが私の全てであり、そこになんの疑問も不自由もなく過ごしてました。
島には中学校と高校が一つしかないので、中学入学と同時に3つの小学校の同級生は一緒になります。そこから島外の学校に行く場合を除いて6年間、小学校も同じだと12年間、保育園(幼稚園)も同じだとそれ以上。
ずっと同じ場所時間を過ごすので島の同級生は本当に仲がいいです。
それは33歳を迎えた今も変わらず、島の同級生は私が大切しているものの一つでもあります。
父の話
わたしは5歳の時に出稼ぎに行った父を交通事故で亡くしました。
当時幼かったわたしには死というものを理解できずにいたのを覚えています。
父はとても行動力のある人でしたが、同時に後先考えない人でもあって
いろいろな事業に手をだして(食堂、物流、等)なかには上手くいったものもありましたが、トータルでは借金をしてしまい当時島に家を購入もしていたこともあって、父は単身赴任をせざる得なくなりました。
そして島外に出稼ぎに出てそこで交通事故で亡くなりました。
この単身赴任をせざる得なかったのはやはり島には仕事が少なくウチみたいに島に家を購入して多額の借金をしてしまったら出稼ぎに行くという選択肢しかないです。
「経済面の不安・不安定(仕事の少なさによる)」これは島の問題の1つですね。
島だからこそ
私は5才の時に突然母子家庭となりました。
当然母は毎日働きました。
私と兄は2人で良くお留守番をしていましたが、よく祖父達の家に歩いて行き来したり(小さい島なので子供の足でも、どこでも歩いて行ける距離なのだ、治安も抜群に良い)
いとこの家に寝泊りしたり(これも島ならではで親戚付き合いが頻繁で濃い)全然寂しくなかったのを覚えています。
そしてなにより母子家庭になったウチを周りがいつも気にかけてくれ様々な手助けをしてくれました。
今でも母は「与論だから母子家庭でもやっていけた。」と言います。
「島だから父は出稼ぎに出ないといけなくなり亡くなったが、島だから母子家庭でもなに不自由なく生活できた。」
これですね!